政治的意志とは何か、いろいろ考えさせられる。「政治」には様々な側面がある。


1.特定政党への支持・不支持
2.特定政治家への支持・不支持
3.特定政策への支持・不支持
4.利害が対立する地域の問題に関わる交渉
5.職場の権力関係の調整に関する交渉
6.日常生活にまつわる事象に伴う交渉


 とりあえず、思いつくだけでもこれだけある。しかも、これらはどこかでつながっている。だから、究極的には人は誰もが「政治」からは無縁ではいられない。人間が3人以上集まれば、そこには必ず政治があるという人すらいる。


 「私は政治のことが分からないので」とか、「初対面の人と政治の話をしてはならない」とか、そう言うのが大人のマナーみたいになっているが、それはあまりにも浅すぎる人間関係だろう。


 1や2ばかりに血道を上げるのも、5や6だけに没頭するのも、何だかバランスが悪いような気がするし、カマトトぶって「私は政治のことがわからないんです~」といい年をしてブリっ子するのも何だか気持ち悪い。林家こん平さんのように「あっしには難しいことは分からないので~」と逃げるのは大人のカマトトかもしれないが、イノセントにすぎる。


 いつまでも中立ぶって「政治に関する考えは人それぞれ」とか言ってお茶を濁す人が多いが、その割には、いやそれだからこそなのかもしれないが、「絆」とか「食べて応援」のキャンペーンにコロッと行く人が多い。それもまた極めて濃厚な政治的言動であるのに、それについて異論を述べると、青筋を立てて怒ったり表情が凍りつく人が多い。せっかく暗記した模範解答が足蹴にされたような気になるのだろうか。


 何を言いたいのかというと、人は人それぞれなのだ、みんな違っていいということである。無色透明の絶対中立なんて人はいるはずがないし、優等生的模範解答など、本当は存在しないということだ。


 もちろん、政治的意志を表明することによって、誰かが誰かを傷つけることはありうる。繊細な人間関係に携わった仕事を生業としている人も多く、そこには注意深くあるべきだが、人は誰しも異なるという所与の前提は少しずつ共有していく方向に進めていけないものだろうか。何かあるたびに、タブーでふたをするごとに、その所与の前提をシェアすることから遠ざかり、その実、逆説的なことに、人は孤独であるという絶対的事実から遠ざかるのではないだろうか。


 坂口安吾が言ったように「孤独は人の故郷だ」。そこに立ち返って、勇気を出して異論を戦い合わせること、利害の衝突とその交渉に立ち向かうこと、そこを避けてばかりいては、「地域を元気にする」という口当たりの良いキャッチフレーズも空虚な中身の無いふにゃふにゃなものになるであろう。逃げずに勇気を出して骨太に、それぞれの政治的意志を表現することを尊重できないものなのだろうか。